「調査や見学: 2011年10月」アーカイブ

大津波による石巻市の惨状 

昨日、仙台に着き、夜は、3・11後全国のネットワークを活かしていち早く支援活動を開始した北九州市のNPOホームレス自立支援機構のメンバーと懇談し、現状と課題について語り合いました。

また会派の他のメンバーは、同じく仙台市を中心に支援活動を続けている北九州市のNGOロシナンテスの皆さんの拠点をおたずねして懇談しました。

明けて今日は、それぞれの団体の活動状況を実際に現地で学ぶこととしご案内いただきました。

私たちのグループは、仙台市の北に位置する宮城第二の都市・石巻市を訪れました。

石巻市も大きな被害を出した地域ですが、特に印象的だったのは、港に隣接する区域(例えば緑町、松並、南浜、門脇地区など)で、行けども行けども破壊された住宅街が延々と続いている惨状でした。

これほど広い範囲の住宅が一挙に破壊される姿は、長さ400キロにわたってプレートが動いた超巨大地震によるものに他ならず、今回の地震がいかにものすごいものであったか体が震える怖さを感じました。

被災し破壊された住宅が取り残されて、かろうじて住むことができる住宅もなお居住許可が出ていないため、全く人影はありません。「ゴーストタウン」という表現は、決して誇張ではなかったのです。

釜石市も石巻市も仙台市も、なお復興計画は確立していませんでした。浸水地域の居住をどう判断するのか、県が整備する護岸や堤防の計画が確定しないことなど、多くの未確定要素があり、まだまだ曲折がありそうです。

石巻市では牡鹿半島の蛤浜という地域で、NPOの支援でカキ養殖を復活させる産業復興支援の現場を見せていただきました。防災無線によるマイク放送が当初は役に立った震災当日の状況や、カキ養殖に復興の希望を見いだしていることや、NPOの支援に感謝していることなど、80歳になる地元地区長のお父さんから語っていただきました。

 

さて、北九州市は、釜石市を中心に、がれき処理や復興計画策定支援など必要な支援を継続する事にしています。派遣された職員さんたちは、ほとんど休まず、朝から夜遅くまで仕事をしているのが実情のようでした。皆さんの健康維持と、仕事上の課題に答えるために北九州市もさらなる気配りが必要だと感じました。

今回の訪問では、被災地の実情を確認し、息の長い支援を継続するとともに、釜石市などで学んだ防災教育など、今後の北九州市の地域防災計画に反映すべき課題を大変多く見つけることができました。

ご手配いただいた各地の関係者の皆さん、また準備いただいた仲間の皆さんにも感謝しながら、今回の被災地訪問を終えることとしました。

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石巻市2.jpg

(写真は、石巻市の状況。)

釜石市と大槌町へ

釜石市には午前9時前に着きました。実に38年ぶりの釜石市です。

学生時代のサークル活動の前後を利用して、ある時、三陸海岸北方の田老町から、途中ヒッチハイクをしながら釜石市を訪れたことがあるのです。田老町から、美しい海岸線眺めながら南下してきて、着いた釜石市は、当時まだまだ鉄の町として活気があったと記憶しています。

ヒッチハイクをスタートした現宮古市田老町には、すでにスーパー堤防が完成してそびえ立っていました。当時、私は町の人に「これは何ですか?こんなでかい堤防が必要なんですか?」とお聞きしたところ「昔なあ、ものすごい津波があってなあ。村全体が呑まれたのだ。だから堤防で防ごうとつくられたのだ。」とのお話しを聞き、唖然としつつも、そんな大きな津波が来ることが本当にあるんだろうかと信じられない思いがしたものでした。

大学に帰ってから、明治三陸大津波の記録などを読んでみました。そこには、山の上から眺めていると遠くの海が20メートルも盛り上がり、やがて村全体を飲み込んでいった等の記述があって強い印象に残りました。しかし、まさかそれほどの津波が、私が生きている間に再びあの三陸の町々を襲うなど考えたこともありませんでした。

 

JR釜石駅あたりまでは津波は襲っていなかったので、ごく普通の風景ですが、港方面へしばらく行くと一変。震災から半年たっているというのに惨状がひろがっていました。8700トンという大型船が岸壁に乗り上げている光景はメディアにもよく登場していますし、周辺の被災状況は理解していたつもりですが、現場に来てみるとやはり津波のパワーと恐ろしさを実感しました。

北九州市から支援に派遣されている東課長の案内で、鵜住居小学校・釜石東中学校にも行きました。

釜石市では、それまでの防災教育によって学校の管理下にあった小中学校の児童生徒約3000人の命がたすかりました。「釜石の奇跡」と呼ばれて称賛されています。

中でも、小中学生が、周りの保育園児やお年寄りにも気遣いながら自主的な判断で避難しつづけて学校の全員が助かった鵜住居小学校と、隣接する釜石東中学校は注目されました。

私は、その避難の実情を知りたいと思っていましたが、現場を訪れてみると、子どもたちは相当な距離を自分たちの判断で避難し続けていたのだということに感心しました。当初の予定避難所にとどまっていたのでは被災を免れませんでした。子どもたちは自分たちの判断で、もっと高台まで、さらに高いところにある石材所へと、状況を見ながら避難していました。「災害に上限はない、自分の判断で逃げろ。てんでんこだ。(自分たちそれぞれだぞ)」と教えながら、実際に訓練を続けてきた大きな成果でした。

釜石市の防災教育は、群馬大学の片田敏孝先生が永年指導されてきました。その片田先生は、北九州市の地域防災計画見直しの座長にもついていただいています。

その後は、がれきの中間処理作業を続けている現場を訪ねて、がれき処理の現状と、かかえる課題についてレクチャーを受けた後、隣町の大槌町へ。

ここでも町長さん以下、数多くの方々が亡くなり、壊滅的打撃を受けました。庁舎の正面の時計が津波が襲った午後3時30分で止まっていたままだったのに心が痛みました。

釜石市へ戻り、副市長さんと議長さんにそれぞれご挨拶した後、北九州市から派遣されている職員の皆さんと懇談。ご苦労をねぎらうとともに、いくつかの要望も聞いて善処することを約しました。

  釜石市.jpg
鵜住居小学校.jpg
がれき中間処理.jpg
大槌町役場.jpg

(写真は、それぞれ釜石市海岸近く、鵜住居小学校、がれき中間処理の現場、大槌町役場)

ずいぶん久しぶりの遠野市

今日から会派として被災地を訪れることになりました。明日は、北九州市からも職員を派遣するなど復旧復興への支援を続けている岩手県釜石市を訪ねることにしていますが、現地に迷惑をおかけしないよう最初の宿泊地は、JR釜石線の途中・遠野駅がある遠野市とすることにしました。

かつて私は学生時代に岩手県下閉伊郡の岩泉町内でサークル活動をやっていたことがあるのですが、遠野はその時代に一度訪れたことがある町です。宿泊したわけでもなく、なにしろずいぶん昔のことですので、詳細な記憶は薄れてしまっていますが、当時も、歴史を感じさせる落ち着いた街並みであったと記憶しています。

昨年はちょうど柳田国男の『遠野物語』から100年だったのだそうで、歴史的伝承や民話などを中心に、活発な町おこし活動が進められたようです。散歩をしてみても、蔵のある景観づくりや散歩道の整備など、ハード面でもずいぶん工夫されている様子が見て取れました。やはり落ち着いた感じの良い町でした。

残念ながら、夜着いて朝早く出発ということで、市内をゆっくり見ることもできませんでしたが、機会があればまた訪れてみたいものだと思いました。  

遠野遠景.jpg
遠野街並み.jpg

(写真は、遠野市の街並み)

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